のび太くんがなりたかったもの③

(ブログは、スマホで読むと皆さんからのコメントが表示されないことがあるようです。是非PCで読んでください。そしてこの記事は、僕がカウンセラーになるまでの道のりをボチボチ書いていくシリーズですので、①②の続きとなります。ご了承ください)

大学3年生の秋、ユングが書いた『人間と象徴』に魅了された僕は、無意識の力と、それがどう表現されるのか、ということに興味が全振りしていた。

3年生になると、全員がどこかの心理学の研究ゼミに所属する。

僕が入ったゼミの教授は、当時40歳過ぎくらいの眼鏡の女性の先生で、とても人柄の良い先生だった。

学生に凄く慕われていて、カウンセリングを受けるなら、こういう人に受けたいな、と思った。

所属していた教育学部は、山の上の方にあって、毎日ちょっとした登山の気分で大学に行く。

むろん朝の重い体にとっては、決して良い意味の登山にはならない。

が、登ってしまえば、遠くの駿河湾まで見えて、授業中も外を眺めては、しばし景色に浸った。

教育学部まで登る坂の途中の右手に図書館がある。例の隣の大学の新しい図書館とは違い、めちゃくちゃ古いが、宝の山。

通常開放している部分に加え、研究用に許可を得なければ入れない地下の書庫もあるのだが、そのことを知って、役立てることになるのは、もう少し後の事。

この2年半で、山あり谷ありの挫折を経験して。

そんな中、勉強の方向性も見えてきた。

大学院にも行くんだ、と決意した。

だけど、僕はまだ挫折の傷が癒えていなくて、やり切れていないことがあった。

勉強はする。

でも、やりたいこともやる。

くすぶっていても始まらないから、と思って、3年生にもなって、僕はサークルを立ち上げた(ちなみに、普通は2年生くらいまでにこういうことは終え、3年生からは就職に向けて動き出すもの)。

出来ないことをする必要はない。

好きな事で一旗揚げたい。

今、U2の音楽が僕を支えてくれている。

だから、音楽に関わる活動がしたい。

でもギターは下手くそ。

じゃあ、想いを言葉にして表現する。

これがハマった。

音楽好きは世の中に多い。

というか、嫌いな人はいるのか?

音楽について様々な記事を掲載する音楽雑誌を創刊する。

と言っても、白黒印刷の安っぽいやつだ。

出来る範囲でいいよという約束で、半袖・半ズボンの彼も手伝ってくれた。

嬉しいな。

記事を書いてくれそうな友人には、片っ端から声をかけた。

皆割と面白がって書いてくれる。

細々と始めたのだけど、あっという間に仲間は増え、結果的に数か月後には20人に膨れ上がっていく。

本当の雑誌の編集部のような組織となっていく。

僕は『生きている』、という実感を感じた。

ライブハウスやプロを目指す大学生に取材に行き、ライブレポートを書き、ヒットチャートのレビューを面白おかしく書き、自分の思いを人生で初めてエッセイ風に綴った(ちなみに、これがこうして今書いているブログの原型だと思う)。

どういう風が吹いたのか分からないが、大学祭実行委員から、ステージ出演者を決める審査員をしてくれないかと依頼が来て、出演バンドを決める大役もやった。

何で僕が?と思いつつ。

その一方で、僕は調子にも乗り出していた。

何だ、やれば出来るんじゃないか。

その気になれば、僕はすごいんだ。

部数が伸び、数千人いる学生のほとんどが僕らの音楽雑誌の存在を知るようになる。

どれだけ沢山印刷しても、学生生協のCDなど売っている音楽コーナーなどに置いておけば、必ず全て無くなる。

「編集長さんですよね?」

知らない女子学生から声をかけられる。

「いつもエッセイ楽しみにしています」と、潤んだ眼で言われる。

天にも昇る心地、である。

そして何でそんなことになるのか全く分からないが、僕らの音楽雑誌をパクったというかパロッたというか、偽物の音楽雑誌も出回る(笑)。

え?こんなことあるの?と思う。

もっと上へ。

もっと先へ。

もっと成長して。

世の中に影響を与えたい。

そしてどこまで行けるのか、その限界まで行きたい。

それは僕の想い。

強い想い。

でも、それは皆の想いではない。

偏った、僕の傷つき混じりの想い。

このズレ。

仲間は増えた。

夜な夜な活動する。

止まることなんて知らない。

いつだって、次を目指す。

ん?これどこかで経験しなかったっけか?

ハッと気づく。

メンバーは楽しそうかな?

んー、なんかしんどそうに見える。

そうか、そうか、そういうことか。

僕は自分の夢だけを追いかけすぎているんだな。

人生の流れの中で、その時のその人の温度と僕の温度は同じではない。

心の温度は上がったり下がったりを繰り返しながら、振り子のように揺れていくもの。

活動は波に乗っていた。

サークル長・編集長をしていたけど、でも何だか、皆を引っ張っていくことがしんどくなってきて。

4年生になって、サークル長を新しい人に引き継ぐ。20歳の2年生の女の子だ。

雑誌の作成は順調。企画・取材・印刷・発行、何にも分からないところから、システムを作り上げ、これからももっと進化していくだろう。

新1年生も入ってきて、体制も盤石だ。

1人じゃ出来ないことも、皆が集まれば出来るんだ。

そういう時、アパートでシャワーを浴びていて、ふと思った。

引き際。

すぐに新しいサークル長に電話をして、伝えた。

『僕は辞めるよ』と。

その判断が良かったのかどうかは、良く分からない。

僕が辞めたのをピークに、右肩上がりだった部数は頭打ちとなり、サークルの規模は縮小していく。

これまで手作業で一部一部を製本していて、多く作るのは大変だったから、のび太君のフリしたジャイアンがいなくなって、皆気が安らいだのだと思う。

そして、メンバー達は伸び伸びとして、楽しそうだったし、大学生活を謳歌しているように見えた。

その後、何年かしてサークルは無くなったらしい。

それでいいと思うし、別に命を懸けるものでもない。

僕の想いはあっていいし、でも皆の想いもあって、それが融合して、化学反応を起こして、次の道は出来ていく。

ここは大きな学びになった。

人それぞれの人生があって、同じ方向を見ている人ばかりではない。

当たり前の事実なんだけど、こうして形になってみると、はっきりと分かる。

心は人それぞれで。

カウンセラーがどれだけ良かれと思ってしたことも、その人の歩みからずれてしまうと負荷をかけてしまう。

この体験は、カウンセラーとしての僕の鋳型となる。

大学4年の秋、大学院の試験に無事合格する。

独り酒を覚えてしまったけれど、試験前の数週間、完全に酒断ちをする。

いや、頑張ったなぁ、あの時のオレ。

で、晴れて大学院に行ったかと言えば、そんなスムーズではなく。

まだ納得がいっていないのである、この男は。めんどくさ(苦笑)。

卒業式はサボった。

同じ学科の学生と先生、皆が集まる最後の場である謝恩会の挨拶を任されていたにも関わらず、である。

連絡もせず、である。

全く、人間失格である。

あの時のオレ。

卒業って言うけど、みんなそんなんでいいのか?

と思っていた。

4年間が過ぎたから、卒業。

そりゃそうなんだけど、人生はそんな風に区切れるもんだろうか?

何かを学んで、納得をして卒業したい。

そう思った僕は、休学という選択をする。

人生は『選択』の連続である。

予備校の先生は言った。

僕も今、その気持ちに共感出来た。

『苦難』はもちろんある、でもこの先の未来は『選択』できる。

休学は1年間。

何をやるか。

カウンセラーになるとは決めている。

これからきっと専門的なことは一杯学ぶだろう。

よし、じゃあ、この先絶対に体験しない・学ばないことを徹底的にやってやろう。

いつかカウンセラーになった時に、机で勉強してきました、じゃなくて、泣いて笑って、転んで立ち上がって、痛みを知ってそれを癒して、ということをしてきました、って言えるようになろう。

だから動いた。

ただの人、という立場になって、各地に行く。

年齢も学歴も考え方も違う人たちに会いに行く。

今は心理学は横に置いておく。

ただの人となっての、武者修行。

ある時はサバイバルを学ぶ。

夜の樹海でビバーク(野宿)をする。

木と木に生地を結びつけ、それを屋根代わりにして、寝袋に包まる。

ベテランの指導する人がいて、学びの場。

・・・のはずが、台風が到来し、本当の緊急避難に遭遇。

あれは怖かった。そういう時は誰かと助け合わなければ、人は生き延びられない。

ある時は、海に行く。港から港へ手漕ぎのボートで移動する。

動力源は『人』のみ。

何でそんな状況になるの?ということは置いておいて。

救命胴衣を着てはいたけど、信じられるのは自分の力と同船者のみ。

人の力と波の力の勝負。

1時間もすると、力尽きてうんざりしている奴がいる。

その顔を見て、心の中で『ケッ!根性のない奴だな』という悪態を付きながら、『そういう人を助ける』という、二つの心が揺れ動いた。

人の底力は、こういう時に発揮されると思った。

とにかくもう二度と出来ないような経験をするんだ。

頭じゃない、身体で学ぶんだ。

そう思った。

そうしていたら、本当にもう二度と経験しないような、というか経験したくもない出来事が起きる。

休学も半年を迎えようとしていた頃、弟がメンタルで病に倒れたのだ。

休学がこんな形で役に立つことになるとは思わなかった。

母親から緊迫した電話が入る。

「ちょっと困ったことになってねえ」

当時、浜松にいた弟の元に急ぐ。

アパートに着き、弟の顔を見て、ん、これはいつもと違うと直感する。

こんなに青白かったっけか。

そして、傍らに茶髪の美人の彼女がいる。目は虚ろ。何かを諦めてしまったような目だ。

更に直観が働く。これは良くない流れだ。

それでも兄の顔を見て、安心したらしい。

笑顔が出る。良かった、近くにいるよ。

弟の部屋で一泊。

夜な夜な語る。

その後、療養のため弟は実家に帰り、僕は看病に入る。

病院にも一緒に行く。

医者の診断は『?』。

なんだそりゃ。

病名が決まらない、だと?

んなことあるのか?

状態は悪い、それだけは確か。

医者も判断できない状態を、どう判断すればよいのか。

何とかしたい、でも何も出来ない。

僕は無力さを知る。

カウンセラーになりたいくせに、目の前の弟も救えないのか。

悔しい、悔しい。

そして、ふと、頭によぎる。

そうか、あそこがある!

教育学部に上るその途中の右手。

今、僕は大学院生だ。今度は正々堂々と行ける。

大学図書館の地下の書庫である。

夕刻、古いタイプのエレベータで一人地下に潜る。

でかいボタンに、やたらでかい起動音のするエレベーターである。

暗くてひんやりした書庫。

こんな所があるのかと思う。

ハリーポッターの秘密の部屋的な雰囲気だ。

自分で部屋の電気を付け、症状についての論文を探す。

考古学者が発掘をする気分がちょっと分かったような、そんな気持ちで読み漁る。

症状と治療法、今の僕は何も知らない。

どこかに情報がないか、答えがないか。

カウンセラーになると言ったって、心の事も分かっていないし、世の中のことも分かってない。

どっちも中途半端。

時間は刻々と過ぎていく。

古い本の匂いなのか、カビの匂いなのか、とにかく普段嗅がない匂いの中、黙々と調べる。

地下は人の出入りがほとんどなく、時折遠くでエレベーターの起動音がした。

そして、籠り続けて。

あった!

ちゃんと症例があるじゃないか。

目ぼしい論文を見つけ、コピーを取って、実家に帰る。

医学的な知識は付いた。

僕なりの理解も出来た。

でも、その論文を父親は煙たがった。

息子としてではなく、症例としてみることに抵抗があったのだろう。

うん、それも分かる。

それでいいと思う。

直接の治療ができるわけでもないし。

当時、実家では、目につくところにあった刃物が隠された。

手首の辺りをちょっと切っていたみたい、と親から聞かされる。

胸が苦しくなる。

しばらく剃刀は使わないようにしよう。

人生で最も髭が伸びたのは、この時期だった。

論文からすると、幸運なことに、経過はとても良いことが分かった。

これはかなりレアケースらしい。

ただ、だからと言って、医者でもない僕は、何をすれば良いのか皆目見当がつかない。

とにかく休学の後半は、ほぼ弟と過ごす時間となった。

が、僕はこの時心に誓った。

薬に頼るでもなく、ただ見守るでもなく、背中を押したり、引っ張り上げたり、本人が見えていないその先の一歩を僕が先に進んで、足元を照らしてやるような、そうやって弟を救うカウンセラーになる、と。

そう、ただの心理カウンセラーじゃない。

話を聴くとかそういう事だけに留まらず、人生をより良い方向に導くのが僕の使命だ。

そしてその先に、そういう状況に置かれた人たちを救うんだ、と。

その後、症状が落ち着いた弟は大学を卒業し、それなりに大きなIT企業にシステムエンジニアとして就職した。

が、じきに休職。

そのまま長い休みが続いていた。

大学院に復学した僕は、大学院修了に必要な科目全てで、優、良、可の3段階評価で、全て『優』を取った。

学部生の時は、水戸黄門の成績と言われたが(『可っ、可っ、可っ』と連発したため・苦笑)、もうそうは言わせない。

修士論文のテーマは、風景構成法という描画の心理検査に絞る。

人の心がどのように絵に表現されていくのか、癒されている過程で、どのように変わっていくのか、人の無意識の力や治癒の力に僕は魅せられていた。

ところで、心理の仕事というのは、実は就職先があんまりない。

だから、就職活動ということがそもそも出来ない。

病院に勤めるとして、常勤枠が一人だったら、その人が辞めないとポストが空かないのだ。

そんなこんなで、大学院修士課程2年の2月後半になっても、就職は全く決まっておらず、4月からどこで何をしているのか、先が見えていなかった。

弟は幸い落ち着いていて、でも会社は辞める方向で動いていた。

うん、それでいい。

無理しなくていいよ。

心身の健康が一番大事。

またそのうち、今後のことを話せるといいな。

一方で、もしかすると、オレは就職浪人か?

そして、情け容赦なく3月に突入した頃、大学の教官(例の優しい女教授ではない)から唐突に電話が来た。

赤信号で電話に出て、『車の運転中なんですけど』と言うと、『車を停めろ』と、相当な権幕の電話である。

それもそのはず、常勤の心理職の仕事の募集が出た、とのこと。

しかも国家公務員だ。

行く。

行きます!

絶対に行きます!!

仕事内容もあまり考えず、話に飛びつく。

迷いもない。

1週間後、着慣れないスーツを着て、面接を受けて、2日後に受かったよと通知が来る。

え?こんなもの??

2週間程の間にあれよあれよと事務手続きが進む。

早い早い、公務員の事務職の年度末は本気なのだ(異動前に仕事は片づけたい・笑)。

4月。

晴れて国家公務員となった僕は、白衣を着て、病院にいた。

仕事ってどうするの?何やるの?

就職活動をしたことがないため社会人の常識をよく知らず、つい昨日まで大学をフラフラしていた僕は、学生気分を思いっきり引きずっていた。

そして、またしてもこれから自分の身に想定外の事態が起きていくことを、まだ知る由もなかった。

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